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2004-11-29

中道の心

仁王尊紅葉 あのね、お金のことをちょっと考えてみたんですよ。  はっちゃんね、実は今とてもお金に困っています。でもね、とても幸せなんですね。魂が喜んでいます。面白いですね。  はっちゃんね、お金があったときもあるんですよ。でもね、そのときは幸せじゃありませんでした。とても虚しくて何かで埋め合わせなきゃいけないって思っていたんですね。だからもっとお金を増やそうとしたら、ずっこけちゃいました。
三重塔 このね、お金があったときと、今困っているときで比較してみたんですね。 『お金があるけど不幸せ・お金が無いけど幸せ』 こういう2つの正反対な出来事を比較してみますと、いつも考えるのがそのあとに来る『弁証法的発展』ですね。『弁証法』って誰が言ったんでしたっけ?、あ、ヘーゲル?、その前にギリシャ哲学?、まぁ誰でもいいんですけど、要するに『正』とか『有』の現象が起こってそのあと『反』とか『無』の現象に振り子が揺れると、その後に『合』とか『成』とかの現象に『止揚』して、物事が発展してゆくという考え方ですね。これ歴史にも当てはまると思うのですが、個人の人生にも当てはまると思うのです。  これね、なにも西洋人の専売特許的な考え方じゃないんですね。お釈迦様はこのことを『中道』とおっしゃって道を示されていましたね。  お釈迦様はね、当時インドの地方国家の王子様だったんですね。文武に秀でていて、何不自由の無い暮らしをして、奥さんと子供もいて、外面的にはとても『幸せ』でした。でもね、お釈迦様自身はとても不幸せだったんですね。自分の国の城壁から一歩外に出たら、『生老病死』で苦しんでいる人がたくさんいたんです。そういう人たちを見るに付け、魂が苦しんだんですね。 「どうしてこんな事になってしまうんだろう。人は何のために生きているんだろう。」 こういう哲学的な問題を抱えてね、悶々としているんですね。それで子供に「ラフラ(邪魔者)」なんて名前を付けちゃって、出家したくてしょうがなかったんです。ひどいお父さんですよね、ほんとに(~_~)。  そしてついに『出家』してしまいました。これね、当時のインドではそんなにおかしいことじゃなかったみたいですね。ある一定期間出家して修行することは、慣習になっていたみたいなのです。それで出て行ったのですが、あっちこっちの『先生』って言われているところに修行に行ったら、たちまちその先生レベルまでマスターしちゃうんですね。全部できちゃうんです。でもお釈迦様自身は納得がいかないんですね。それでしょうがないから自分で断食とかして修行していたら、あるときふと気が付いたんですね。ガリガリで痩せこけて今にも死にそうな感じで、必死の形相をしている自分自身の姿に気が付いたんですね。 「??、何やってんだ俺は・・、このままのたれ死ぬのか・・・」 そんな風に思って菩提樹の下でボーとしていたら、とある村娘の『スジャータ』ですね、この子がミルク粥をお釈迦様に差し出して、お釈迦様はそれを素直にありがたく受け取ったんですね。  このときにお釈迦様の心の中で『弁証法的発展』っていう事件が起こるんですね。何もかも揃っていて満ち足りていた頃、不幸せだった魂のうずき・・。そして何もかも捨てて、命さえ捨てようかと思っているときの魂の充足・・??、充足?、充足していたかどうかわからないのですが、何しろその両極端の状況が、全部いっぺんに見える地点までやってきたんですね、心の風景として。  その地点までやってきてスジャータにミルク粥の施しを受けた時点で、いよいよ瞑想的な考察が起こって『大悟』ですね、悟りを得ることになるのです。  これがお釈迦様の『中道』の起源なんですね。  どうなんでしょう、こういうビジョンを人生で体験された方はいらっしゃるでしょうか。なにか両極端の状況が見えて、そこから一段先へ行ったような感じなのですが。  私ね、見えたような気がしたんですね。だから記事にしてみました。  これから何か起こるんでしょうかね、それともまだ振り切っていませんかね。  どうなのかわからないのですが、人生に素直になってみようかと思いますぅ。 <写真> 千葉県は芝山仁王尊・観音教寺、大銀杏の紅葉。 奥に見えるのは同寺の三重塔。2枚目はそのアップ。
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こんばんは。「岩戸開き」のトラックバックありがとうございました。
お釈迦様のお話、とっても勉強になります。
でも本当に、上も下も、光も闇も、両極端全て経験することが、真実へ近付く道と思えてなりません。
はっちゃんさん、素直になって頑張って下さ~い!
私もこの頃浮き沈みが激しいですが、ようやく「これも自分だな」と、受け入れつつあります。私も頑張りますね。

お久しぶりです。いや~シンクロです
このコメントのあった日に、スジャータの話を娘に話していたのです。苦行だけでは悟れないという話です。人は肉体を持っているのだから、理論だけでも駄目だし、肉体の声にも耳を傾けないと駄目だと思うのよ、だから厄介で、だから面白い・・と。
私的には、「中庸」は心がけていますね。おじさんチャネラーさんが交信してくださったMさまのおっしゃることにつながりますが、全てその「中庸」であり、「中道」の目で見よということなのでしょうね・・。
以前お話した「黒住教」では、教祖が、生きながら神になろうと立志なさったわけですが、父母の死を悲しみ苦しみすぎたために労ガイを病み、死の直前にいくわけです。最後にお日様を拝んでいるときに悟るわけです。自分はまちがっていたと・・。なんかにてるな~って感じました。逆に言うと、悟りのプロセスって「弁証方的発展」がないと駄目なのかも
しれませんね、そう仕組まれているのかも・・

こんにちは。お釈迦様のお話を読んで、先日、竹生島の宝物殿で見た涅槃図を思い出しました。
はっちゃんさんの記事を読んで、お釈迦様が、伝えて下さりたかったことは、こういうことだったのかな~と思いました。
そして、お釈迦様が最後に言われたという「すべて世は無常である。怠ることなく、努力をつづけよ」この言葉も浮かんできました。
私も、自分の行き方を模索しようとするがゆえにお金の悩みも生じました。でも、はっちゃんさんがおっしゃるように、魂は、喜んでいるようなんです。
私もがんばります。ありがとうございました(^^)

☆mikoさま
ありがとうございます。
『私のアマテラス様』もそういう感じなんですぅ。
包んで待っていてくれる感じです。

☆雪の花さま
『体』も大事ですよね。
私ね、最近道教の『タントラ』っていうのを勉強してみたんですよ。あれ侮れないですね。
精神的に苦しんでいる人は、精神的に解決しなければいけないと考えがちなのですが、その原因が「私は自分の体が嫌い」とかですね、「本当は生まれてきたくなかった」なんて感じている人は、体を「いいこいいこ」してあげる必要もあるのではないでしょうか。
星野宏洋さんのところで、「次元の壁を突破せよ」って言うお話しがあったと思いますが、直線的にそれまでの人生の連続ってことでは、壁を突破することは難しいと感じます。

☆aquariusさま
 芝山仁王尊のはにわミュージアムでは、涅槃図どころかお釈迦様の一生が、巨大な絵と共に描かれていました。そのインスピで書いたんでしょうか、今回の記事は。でも誰かがシンクロしていることは、確信しておりました。
 そうそう、お釈迦様って基本的に『努力』の方なんですよね。だから正統的な仏教っていうのは『秀才型』なんです。学校のようなものを作って教学し合うのが正統な形です。
 わけのわからない『公案』をぶつけ合う『禅』はちょっと正統ではありません。途中で『道教』と結婚したからそうなったと言っていた人がいました。
 それと『南無阿弥陀仏』さえ唱えれば救われるというのは、実は『努力の道』とは正反対なんです。むしろ『努力さえ手放せ~~!!』と詰め寄るものがあります。これはイエスの十字架にも言えることです。この他力による救いの道・・、これもありなんですね。はっちゃん実はこの『他力型』に近いんです。
「あなたが愛されるために、何か理由が必要だと言うことは無~い!!」
「あらゆる努力が空しくなったその地点で、己の尊さに気づけ~!!」
プロフィール

シュバン

Author:シュバン
ミクシィで『ひふみ神示』コミュの管理人をしています。人間に見えるけど、猫です。

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